便座とサブスクリプション

自動で開く便座が苦手だ。

世の中自動で動くものはおびただしい数あるが唯一自動で開く便座が苦手だ。身構えてしまう。確かリフォームした祖父母の家で初めて出会った日にも身構えてしまった記憶がある。あまりの余計な便利さにびっくりしたのだ。

 

気持ちのよい自動と気持ちの悪い自動があるのだろうか、となんとなく思うがどうだ。

例えばトイレ繋がりで自動でウンコやらおしっこやらを流してくれる下水、やりたくないことをやってくれるこれは紛れもなく気持ちのよい自動だ。

自分で演奏したり歌ったりしなくても再生ボタンを押せば自動で好きな曲を流してくれる諸々の機器も気持ちのよい自動だろうし乳首をいじってくれるU.F.Oというアダルト器具もきっと気持ちのよい自動だと思う(のだが買ったこともなければ使ったこともない。だいいち高いし二つ購入しないといけないというのは気持ちの良くない売り方だ)。

 

しかし自動で開く便座はどうだ。ご老人にはうれしい機能だと思うがそれ以外からしたら別になくてもいいのではなかろうか。気にしなくてもいいのだがいい押し売りである。ウンコしたりおしっこしたりするというオナニーと同等にプライベートな時間・空間に突如として訪れた侵略者なのだ。俺にとっては。だからびっくりして身構えてしまう。

 

別にええやん。とも自分で思うがこれと同じ感覚は別の場面にも現れる。

自分の好みに合わせて知らない曲を不意打ち的に聴かせてくれるという機能である。spotifyとかapple musicにそんなのがある。使ったことはない。

 

便座の蓋を開ける、あるいは音楽を聴く、もしくはティッシュを引き抜くという極端にプライベートな時間にそういった機能にしゃしゃり出て来られると、困る。

便座の蓋くらい自分で開けられる、知らなくても曲ぐらい探せる(といってもこれだけは少し自動の恩恵を受ける時がある。youtubeのあなたにおすすめにだけはお世話になっている)、ティッシュぐらい自分で出せる、そんな対抗心というか人間としてのプライドがそこにある。

 

ところでレンタル屋が次々と廃業している。大学時代お世話になってたTSUTAYAも二階のレンタルコーナーが丸々フィットネスジムになっていた。立ち尽くしてしまった。

 

便座も自動で開く時代。音楽や映像はサブスクリプションという現れるべくして現れた次の段階によって消費のされ方が刷新しつつある(もう最終段階といっても差し支えないだろう)。

 

わざわざレンタル屋やレコード店に行って聴きたいものを物理的な物として消費する人間はやがて好き者になってしまうのだろう。もう80%ぐらい好き者だ。残りの20%はCDやDVD Blu-rayに付属するイベントの抽選券くらいである。

 

といってもまぁしょうがないことなのだ。誰が何を触ったかもわからない便座を手を使ってわざわざ開けるという前時代の人間も気持ちのよい自動の前では好き者になるし、月額料金払ってるのにそこで配信されてるCDやレコードをわざわざ買うのは物理的に残るものは差があるとはいえ、立派な経済的マゾヒストである。

 

しかし好き者にも先ほど書いたプライドはあるし何よりレンタル屋やレコード店で買い物をするというそれでしか味わえない出会いがある。残念なことに便座にはその出会いがないのでやはり自動化は喜ぶべきものなのだろう。

 

元々は自動で開く便座の話だったがレンタル屋、レコード店の話をしたい。

 

ABC順、あいうえお順に並んでるCDやレコードには魔力がある。ジャンル関係なく十把一絡げに並べられていると尚更である。

周辺視野というものをご存知だろうか。一点だけ見ていてもその周りのものが見えているというそれである。

 

レンタル屋、レコード店に行くとほぼ無条件で周辺視野が働く。目的としていた商品を手に取るという行為の「ついで」が生まれるのだ。サブスクリプションでも関連するものが出てきはするが情報量という観点ではこれには到底及ばない。

「このアーティスト、名前は知ってるけど聴いたことないな」とか「このジャケットいいな」などなど、そういうデジタルとは桁違いの出会いを俺はTSUTAYAの二階で数え切れないほど味わい、数え切れないほどの名盤と出会い、数え切れないほどのクソしょーもないCDと出会い、わざわざ金を払った。

邦楽においてジャケ買いはあまりすべきでないというのはTSUTAYA二階で培ったスタンスであり持論である。

 

そう考えると便座の蓋を開けるという行為も「汚いな」とか「あ、掃除しておこう」とかそういう「ついで」が生まれるのではないだろうか。自動化、ざまぁみろである。